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静大工学部(浜松高等工業高校) 誘致

浜松発展に大いに貢献した静大工学部が浜松に出来た背景


みかえる


 みかりん

「 浜松市史(三) 」P.519 ~ 520

浜松市に官立浜松高等工業学校(静岡大学工学部の前身)の開校をみたのは大正十二年四月であった。高等教育機関の浜松への誘致は長い間の市民の念願だったので、大戦後の高等教育機関拡張の方針により静岡県内に高等諸学校創設の計画を知ると、明治三十三年と同四十一年には高等学校の誘致運動をおこし二回とも苦杯をなめた経験を生かして、静岡・沼津と三つ巴(どもえ)の争奪戦を演じ、その結果待望の設置に成功したのであった。なお静岡へは高等学校が設立されることになった。
敷地は、県案は龍禅寺(坪二五円)であったが市案の浜松沢(坪五円、一万四八七四坪)と内定し、地元の企業三十八社の三万二千円余及び市民二百三十二名の二万九千円余の寄付金もととのい、

大正十一年十月に創立と正式に確定した。【臨時教員養成所】定員三百六十名で修業年限三か年、機械・電気・応用化学の三科に分れ(順次他の科が増設された)、別に臨時教員養成所もおかれた。校長は関口壮吉。(昭和四年一月没、父隆吉は静岡県知事、新村出は実弟、関口家は家康正室築山殿の生家)
授業時間を減少し定期試験も実施せず教育方針には自由啓発主義を尊重し、スポーツの奨励・文化活動にも意を注いだ。設備の整った講堂・校庭・プールはしばしば市民にも利用され、校長の案になった校門の薔薇(ばら)垣は「関口バラ」とよばれ、花の咲くころは市民の目をたのしませた。また年一回の学校祭も浜松の名物であった。その校風をしたって昭和五年定員百二十名に対し千五百八十名の志願者があった(『静岡大学工学部五十年史』『浜松工業会誌佐鳴第50号』)。

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「 県史 」P.887

官立高等工業一九一八(大正七)年、政府は臨時教育会議の答申にもとづき、一九年から二五年にかけて高等 学校誘致運動学校一〇校、高等工業学校六校などの官立高等教育機関の拡充計画を議会に提出した。静岡県には高等工業学校の設置が有望視され、静岡市と浜松市との間で誘致合戦が行われた。その動きを静岡市側から追いかけてみよう。
静岡市では一九年に入るやいなや、一月十六日市会協議会を開き(『資料編近現代』四?一〇三二ぺージ)、早速誘 致活動に入ることを決定した。
二日後の文部大臣あての陳述書は、工業分布の動向は大井川を境にし東部に著しく、また工業の原動力たる発電事業はことごとく大井川、富士川、芝川に集中し、製茶、製紙、紡績などの事業 が勃興しているうえ、県下唯一の良港も庵原郡清水町にあり、将来の大工業地帯として発展が期待されている、と静岡市が学校設置の好適地であることを強調している(『資料編近現代』4-P.132)。

そして政友会をはじめ県選出議員への根回し、榛原、志太、安倍、庵原の四郡への根回し、郡から県知事、文部大臣への陳情書の提出、新聞記者への世論喚起の依頼、市民大会の開催と大会名による総理、文部、内務の各大臣への要請文の送付など、さらには小笠郡出身の前文部大臣岡田良平を説得して文部省内の議論をまとめさせること、などの方策を講じた。

こうした静岡市の運動にもかかわらず、一月二十三日に東京に詰めていた知事から高等工業学校は浜松に、高等学校は静岡市に確定した、との発表が伝えられた。こうしてニニ年八月静岡高等学校が設置され、同年十月浜松高等工業学校が設置された。

「 図説 静岡県の歴史」P.256 ~ 258 河出書房新社

大正八年一月一六日付の「静岡民友新聞」は、関係筋にたいする浜松市長の働きかけ(とくに掛川出身で前文部大臣岡田良平を通じてのものといわれる)により、文部省の意向が浜松市に傾きつつある、という伝聞とともに、遅れをとつた静岡市長が知事に静岡市設置を要請していることを報じた。これにより誘致問題は巷間に流れ、浜松と静岡、それに沼津も加わって、三つ巴の争奪戦となつていつた。
静岡市では、一月一七日緊急市会をひらき、設立運動実行委員を選出、態勢を整えた。県都であり、清水港をひかえ、将来工業都市として発展が予想される静岡市に設置すべきである、というのがその主張である。翌一八日には、浜松市会、沼津町会などでも委員を選出し、さらには地元有力者を総動員して知事・文部大臣に地元設置を要望した。

ついで一月ニー日、静岡市浅間神社境内で「高工設置期成同盟会」が主催する市民大会がひらかれた。寒風砂塵をふきあげる中に集まった市民五〇〇〇人。

境内を町旗と人で埋めつくす熱狂ぶりだった。市民大会の決議「高等工業学校の建設地は本県の主脳地だ。静岡市に置くを当然と認む。仍而全市民協力、飽迄之が貫徹を期す」は、ただちに各大臣・知事宛に電報で送られた。いまや、各郡会もそれぞれ近接する浜・静・沼の動向に呼応した決議を行ない、県下の形勢は三つに分かれた。富士川以東の賀茂・田方・駿東・富士の四郡では県会議員を中心に「大正四十七士」をつくり、盟約して沼津誘致にとりくんだ。

日夜、猛烈な陳情合戦がくり広げられたが、文部省の方針はすでに決まっていたようである。一月二三日、文部省は高工設置予定地を発表して浜松市を指定し、大正八年度より四力年継続事業により設立するとした。政治工作で先手をとった浜松市に凱歌があがったのである。

「 はままつ百話 明治・大正・昭和 」P.168 神谷 昌志/著 静岡新聞社

静岡、沼律に勝った高等工業学校誘致

静岡大学工学部の前身浜松高等工業学校の設置が決定したのは大正十一年十月、開校したのは翌 十二年四月であった。当時、政府は科学振興施策として全国に高等工業学校を十校程度設置の方針を打ち出した。これに呼応して各地から誘致希望が出され、静岡県下においてさえ浜松のほか静岡、沼津でも是非設置を…と運動を行った。結果として浜松市が機業地として発展しつつあったし、そこには高水準の技術が要求されていたため、浜松に決定をみた。

浜松では誘致を成功させるため、学校用地を提供する条件を出し、当時山林と一部耕地になって いた浜松沢に約一万五千坪(四万九千五百平方メートル)を用意した。県が浜松設置に同調の方針をもっていたことも幸いしたが、県としては敷地を同市龍禅寺町の周辺を考えていた。しかし土地単価の 問題で浜松市案の浜松沢を校地とすることが決まった。当時、龍禅寺は三ニーー平方財当たり二十円 前後、これに対し、林地であった浜松沢はその四分の一の五円であった。土地買収費は地元の織機 メーカーや有力企業からの寄付と市民よりの浄財によってまかなわれた。