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浜松に ”官立高等学校” 設置を目指して

そして”官立浜松高等工業学校”(静岡大学工学部)が・・・


みかえる


 みかりん

鉄道院中部鉄道管理局浜松工場 又 繊維、楽器などの工業の発展していた事が、誘致につながる

浜松の将来のため、多くの企業、市民が寄付をした。 【 二宮尊徳(報徳)の教えが、遠く浜松の地で花開いていた】

本田宗一郎(聴講生)はじめ多くの人が学問を究め、地元企業の発展に貢献した

テレビの父、高柳健次郎 又その教え子が、世界の映像技術の礎を築いた

健次郎の教え子 堀内平八郎が起こした企業の光技術は、多くの分野で活用され数々のノーベル賞を影で支えた

 大正8年(1919) 静岡県より申請許可が出る

静岡県より現金47万円及び敷地15000坪を寄付する事を申請 許可される( 浜松工業会誌 佐鳴 第55号 p6)

 場所は、澤 普済寺の土地を


濱松市街明細地圖 最新索引付営業案内 ( 大正10年発行 )

大正9年発行の地図に、赤枠で位置を記入

・下の赤枠が開校時の場所(現在の市立高校)
  西側部分・・・ 昭和7年追加購入

・上の赤枠が戦後移転した現在の場所
  (当時 明治41年 誘致した 浜松歩兵第六十七連隊 )


明治29年(1896)
静岡県立尋常中学校浜松分校
 (現 浜松北高等学校)
明治32年(1899)
町立浜松商業学校
 ( 現 元浜松測候所)
大正3年(1914)
静岡県浜松師範学校
【前進 明治8年 浜松瞬養学校】
 ( 現 浜松学院大学)

そして準備、開校へ

 大正9年(1920)6月  課せられた地元負担は、大恐慌勃発のなか多くの住民、企業の寄付金でまかなわれた

浜松市史に書かれている ”地元の企業38社の32,000円余及び市民232名の29,000余の寄付金” の根拠を中央図書館資料室図書館業務アドバイザーにお伺いすると、大正15年発行の「浜松市史」を教えていただきました。そこには全員の氏名、会社名が掲載されていました。

決定約1年後、大正9年6月 約6万円の 寄付がまとまりました。最高で 7,500円 最小額が5円。現在の価値に換算すると5円は25,000円から30,000円ぐらいか 「寄付金」ページへ
 大正11年(1922)10月20日  浜松高等工業学校設立公布

第13の官立高等工業学校として設立公布。
静岡市に建設の静岡高等学校は、赤池知事の国への要望で工期を1年短縮する事に成功し、浜松に先んずる8月に設立公布。

官報. 1922年12月15日
 大正12年(1923) 4月13日  開校 第1回生 入学式

初代校長 文部省督学官 関口荘吉(父は、静岡県令 関口隆吉)が就任。氏は小学校を、上海にあった宗教学校(キリスト教?)を卒業したため不自由なく英会話が出来たとのことで、人格、能力を最大限度まで伸ばす”自由啓発”を説き、仁愛を基礎とした。

カリキュラムも数学、物理のような基礎学、実験実習に重きを置くようにされたとの事で、機械学科は内燃機関と材料学を主とした

浜松高等工業学校 開校の地・テレビジョン発祥の地
西部協働会館前(浜松市立高校 西隣)

関口家と浜松の不思議な縁
  • 戦国時代 井伊家当主 井伊直平の娘は、今川義元に人質としておくられ側室となる。その後、今川義元の養妹という形をとり、関口刑部大輔親永に嫁ぐ(拝領妻)。生まれた子供が築山御前
  • 山葉寅楠が最初に作ったオルガンが不評で困っている時、静岡県令 関口隆吉は音楽取調所(現 東京芸術大学)への紹介状を書き、そのおかげで山葉寅楠は自作オルガンを見てもらうと共に、聴講生として約1ヶ月音楽の理論と調律を勉強をする事ができた。帰浜し成功したオルガン製作の注文第一号は、静岡県令 関口隆吉からの5台と静岡師範学校(現 静岡大学教育学部)への2台だった

 4月20日 白い「ハトヤバラ」を周囲に植え込み

校長は、境界を作る事は好まなかった為、門 塀を一切作らず、その代わりとして植えた薔薇(ばら)垣は「関口バラ」とよばれ、花の咲くころは市民の目をたのしませた。 又 校内校舎も学部の分け隔てを避けるため、1号館、2号館と番号で呼ぶようにした

泥棒に入られ、結局 門、塀が出来ました
(写真・・・ 浜松いまむかし p135)

== 現在の市立高校 生け垣 ==
美術の時間か、 生徒がバラの写生をしていました

== 静大工学部 正門 ==
伝統の白バラが植えられていますが、少し寂しい