サンプルロゴサンプルロゴ

浜松に ”官立高等学校” 設置を目指して

そして”官立浜松高等工業学校”(静岡大学工学部)が・・・


みかえる


 みかりん

鉄道院中部鉄道管理局浜松工場 又 繊維、楽器などの工業の発展していた事が、誘致につながる

浜松の将来のため、多くの企業、市民が寄付をした。 【 二宮尊徳(報徳)の教えが、遠く浜松の地で花開いていた】

本田宗一郎(聴講生)はじめ多くの人が学問を究め、地元企業の発展に貢献した

テレビの父、高柳健次郎 又その教え子が、世界の映像技術の礎を築いた

健次郎の教え子 堀内平八郎が起こした企業の光技術は、多くの分野で活用され数々のノーベル賞を影で支えた

● まずは、歴史書 で 全体を勉強 「浜松市史」 「県史」 「図説 静岡の歴史」 「浜松百話 明治・大正・昭和」

詳細がよくわかりません。それに どうも静岡中心の話が多く浜松の活動が見えない。そこで静岡県立図書館に赴き、当時の新聞記事を集めて見ました

 

約20年 計3回にわたる粘り強い誘致活動

 明治32年(1899)   第八高等学校に、長野県と愛知県が名乗りを上げた事を知った浜松は
「静岡大学工学部 50年史 通史」

1894年(明治27)の「高等学校令」の制定によって、従来の第一から第五までの高等中学校が高等学校と改め、又新たな新設の方針に対し、( 第六高等学校が岡山に、第七が鹿児島に決定済み )第八高等学校には、長野県と愛知県がすでに名乗りを上げていた。それに対し浜松町も名乗りをあげるべく 中村忠七町長以下 勇者が集まり下記条件も含め、明治32年(1899)年 県知事宛に要望書を提出。そして同年6月29日の臨時県議会の承認を受け、文部省に「建議書」を提出し静岡県として名乗りを上げた。

敷地 およそ2万坪 献納

もし県から高等学校設備の費用を出資する場合には、凡そ1万円の献金

( 当時の浜松町の人口 約2万人、 貨幣価値 1円は、現在の5000円? )

 明治38年(1905)   第八高等学校は東海方面 愛知、長野、静岡のなかでの設置が決定したが・・・
当時の新聞記事

愛知県は、積極的な陳情活動を行い、その中で建設用地と建設設備費用すべてを負担するという条件を提示。それに対し、静岡県は浜松町の熱意とはうらはらに一切の活動をせず、明治40年(1907)になってようやく東園事務官が県会の成り行きを主務省に報告かたがた出京(12月3日)するのみ。
 そして明治41年(1908)3月、名古屋に決定、無念の涙をのんだ

浜松町は、この頃 鉄工場誘致に奔走していました

明治39年(1906) 浜松近辺に鉄工場(鉄道車両製造、修理工場)の候補との事で、町民あげての誘致運動。
 県知事からの賄賂要求やら、渋沢栄一の干渉等による廃止決定、など多難を極めながらも、大正元年(1912) 鉄道院中部鉄道管理局浜松工場として操業開始

土地 65,000坪、建設費用のうち約10万円の地元負担
( 企業 及び町民からの寄付 約5万円、借入金 約5万円 )

 大正5年(1916)   高等工業高校誘致活動に参戦
当時の新聞記事

政府は大正六年度予算編成で高等工業高校 東京を中心にして一校増設を決定。しかし広島 横浜が校舎建設費及び敷地一切の創立費を寄付する条件で名乗りをあげた。それを聞き浜松も臨時議会を招集し学校敷地、校舎建設費提供を可決して8月12日 、「電気工業並びに染織等の急速な拡大、鉄道院の浜松工場等もあって工業教育の施設を要する事重大なる」との書状を以て文部大臣に誓願。金沢も同条件で名乗りを上げる。しかし1917年(大正6年)の第39回特別帝国議会において横浜・広島・金沢の3市に高工を増設することが決定。 またしても涙をのむ

 大正8年(1919)   わずか9日であったが、浜松 静岡 沼津の三つ巴の争奪戦が・・・・
当時の新聞記事

政府は「大学令」を公布し全国中高等教育機関の設備ない27県に対し16県を選定し高等程度の学校を増設する第1次計画を立てたがそれには静岡県は入らず。

官報. 1918年12月06日 「大学令」

しかし赤池知事 上京後の大正8年1月14日 国の方針が追加で下記条件で静岡県に機械科応用科学科電気科 3部からなる高等工業学校設置である事を発表。
・土地、設備費用 110万円は地方の負担
・大正8年度より同11年度に至る四ヶ年間の継続事業として完成さる事
するといままで活動のなかった静岡が16日に、その後 沼津も参戦表明し、スペイン風邪が吹き荒れる中 三つ巴の争いに。
 そしてわずか9日後 1月23日 文部省より 高等工業高校は浜松に、静岡には高等学校を、次年度からスタートで建設する事の発表が有り決着。
県庁以外での設置は、米沢高等工業学校(1910年3月開校)に次いで2番目。次年度には長岡高等工業学校設置の発表あり

・ 現代の新聞も同様だが、新聞によってトーンが違い、「静岡民友新聞」は静岡市中心の記事が多い
・「静岡新報」は欠落が多く、又残存は”青焼きコピー” もあり読み取りが難しい箇所あり

従って、静岡県の歴史は、「静岡民友新聞」によって作られ三つ巴の争奪戦を大々的に報道している様な気がするが、 3月までに決めなければならない次年度予算決定の2ヶ月前の1月の出来事であり、又 すでに結果を知っている現在から見ると 「静岡新報」が報道している下記コラムが妥当なところか

18日 静岡新報 コラムより
高工設置問題に関しては浜松では既に九分の勝ち目を有して割合穏やかだ ▲文部省の意向は大正九年度に於いて静岡市に高等学校、浜松市に高等工業学校を設立しようと云うので両校一時では負担が大変だから知事は寄付金を集めるのに都合のいい高等工業高校を先にする様にして来たという説がある。知事は否定して居るが、そういう風説は中々盛んだ。