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静大工学部(浜松高等工業高校) 誘致

浜松発展に大いに貢献した静大工学部が浜松に出来た背景


みかえる


 みかりん

「静岡大学工学部 50年史 通史」P.18,20

第3節 高等学校設立の動き

第八高等学校 誘致の動き
1894年(明治27)の「高等学校令」の制定によって、従来の第一から第五までの高等中学校が高等学校と改められ、次いで1900年に第六高等学校が岡山に、1901年心第七が鹿児島に設置されたが、静岡県下でも1899年、静岡県下に高等学校を誘致しようとする動きが表面化する。まず動いたのは浜松であった。直接的には第八高等学校の設立をめぐって、長野県と愛知県が名乗りを上げていたから、東海中部地方のどこに八高を置くかが問題であった。
 浜松適所の事由
浜松がいかに高等学校を設置するの心適所であるかの理由を、浜名郡町村長連名の、2月15日付けの「高等学校設置ノ位置選定ヲ請フノ件二付具申書」は次のように述べている。

東海道は東に第一高等学校あり、西に第三高等学校あり、その間百二十里、面積二千五百万里、東は関東の平野より西は淀川の平野に至る迄、富士、大井、天竜、木曾の平野ありて米穀、茶、生糸等重要物産に富み、生産の額、風上の和、全国無比と袮す。而して東西両京の中央に位に東海教育の中点に当るものは実に我が浜松なり、抑(そもそ)も第一高等学校は東京府を中心として神奈川、埼玉、栃木、群馬、茨城、千葉の諸県を収容し第三高等学校は京都府を中心として滋賀、岐阜西部、奈良、大阪、兵庫等の吝県を収容す。其中間に残るものは岐阜の東部、三重、愛知、静岡、山梨、及長野の南部口して、此間に就で高等学校の位置を求かれば、名古屋は西に偏し静岡は東に偏す。我浜松は実に其中心焦点なり
(静岡県歴史文化情報センター提供、新居町役場庶務係「官衙往復書類」)。

そして、傍証として6県の中学校数を比較して静岡県が4校で一番多く、生徒数も静岡県が1342人と一番多いというデータを示す。さらに「教育の進度」として小学校児童の就学率を挙げて、特に愛知と対照して高さを誇る。また一一高七三高への6県の就学生徒数まで挙げて、静岡県が賍校合わせて55人とー番多いと論ずる。それでも物足りないとして、風俗環境、気候風土、病気衛生、生計費などにまで及んで、浜松が最適であると展開する。データも密にして洩らさず、力のこもった文書である。

静岡県議会の動向
こうした浜松の動きに押されたかのように、同年6月29日の臨時県会は、高等学校を静岡県に指定してほしい旨の、県知事名の文部大臣宛の[建議書案]を議会に諮問した。全文次のとおり。

政府八明治三十三年度二於テ高等学校ヲ増設シ、其ノ一八地ヲ東西両京間二相シ設置セラレントスルノ計画アリト聞ク、
而シテ我静岡県八実二両京ノ中央二位シ、気候、風俗共二学生ヲ養成スルニ適当ノ地ナリト仁ス、幸二其位置ヲ本県下二定メラルルニ於テハ、県民誠意ヲ表シ、其ノ敷地及設備二要スル費用八御指示二従ビ、之テ献納セントス、右県会ノ議決ヲ経及建議候也、
  年  月  日   静岡県知事
文部大臣宛

この諮問に対して、議員から費用はどのくらいかかるか、県下に希望する所は出ているのか、という質問が出され、、加藤平四郎知事は、金額は凡そ拾万円前後、敷地は大体二万坪以内。県下における県庁への書面としては、浜松町会の決議を以て浜松町に設置せらるるものならば敷地を献納するとの出願あり、又浜名郡の教育会の建議で当地方へ設置せられたいという願書、又浜名郡の郡会の決議を以て若し県から高等学校設備の費用を建議する場合には凡そ壱万円の献金をいたそうという様々願書が出ておる。
と答えた。そして議員から「覚悟」は?と聞かれて、知事は、[十分なる決心を以て此の目的を達することに力を尽そうと思う]と表明した(『静岡県議会史』第2巻)。

 完全な浜松主導の高等学校誘致運動であり、県会でもこの諮問に対しては賛成意見が次次と出て、起立賛成多数で決した。しかし浜名郡町村長連名の「具申書」と比べれば、文部大臣宛の「建議書」のなんと迫力のかいことか。

新聞記事 

明治40年(1907)12月3日

静岡民友新聞(一)3
●第八高等学校
政府は第八高等学校を東海道方面に新設するの内定あり。これがために愛知県は是非ともこれを名古屋方面に引きつけんとし、本県にては名古屋はすでに高等工業学校を有するがゆえに、教育分布の点よりして高等学校は是非とも本県内に設置されん事を望み、長野県にては愛静の競争に乗じて漁夫の利を占めんと、三県とも県会の決議をもって競争運動を始めたりしが中にも愛知県にては、林事務官を上京せしめて熱心に運動中なるが、愛知方面の説によれば、この問題はすでに約二ヶ年前、愛知県知事上京して当局者と打ち合わせをなし、当局者も名古屋付近説に同意したるものなれば静岡県の運動はいかになるべきか云々とあり。しかれど名古屋市は高等教育を施すの地として決して適当にあらざれば、本県の運動いかんによりては政府を動かし難きにあらざるべし。只本県にては宮川正氏の運動委員説を一笑に付して取りあわざりし程冷淡なるを憂ふるのみ

明治40年(1907)12月4日

静岡民友新聞(二)3
●第八高等は金城か
第八高等学校の新設に関し、名古屋方面の運動および其の声言する所は前号に記し聊(いささ)か本県に警告したるが更に昨日の名古屋新聞は深野知事の談なりとして左の如く記せり 第八高等学校の新設に関しては文部省と本県との間に既に確固たる契約結ばれたるものなれば大勢既に明らかにして本県に 設置さるること無論なり。而して枝事務官は右寄付の手続き方の為、上京したるものにして閣議に於いても愛知県に決定し居ればもはや動かすべきにあらず。寄付については文部省は現金を望むが如き意向なるも本県に於いて土地を選定し建設物をもってする方、結局費用少なきに依り之に決定したり云々 果たして言うところの如くならば最早競争の余地なしと雖も静岡県会にては一片の県議案を議決したるのみにて何らの運動も為さず。県当局にては昨日正午頃ようやく東園事務官が県会の成り行きを主務省に報告かたがた出京したる有様にて静岡市などにては何らの意見だもなきの如し。一切万事かかる有様ゆえに着々他府県に遅るるは遺憾千万なり