みかえる


 みかりん

サンプルロゴサンプルロゴ

浜松を育ててくれた二宮尊徳

二宮尊徳の教えがなぜ浜松に?

天竜川の氾濫等 天変地異で貧困に苦しんでいた浜松の人々が尊徳の”教え”を実践し立ち直りそれが遠江に広がる

全国的に下火になっていた、その”教え”「報徳」が明治維新の混乱のなか、再び燃えあがったのは浜松の地であった

次々と成功を収めた報徳商人と言われた人たちは蓄財を禅譲する事によって、企業発展 誘致活動に貢献した

報徳を学んだ経営者が堅実に企業を発展させ、多くの従業員を抱えることにより浜松が拡大していった

「至誠 」(この上なく誠実な真心) をもって「勤勉」に働き,己の「分度」をわきまえ、倹約を心がけ余りを「推譲」する

やるしかない 日本初の民間組合(報徳社) が浜松に誕生(明治前 約20年)

幕末 冷害と天竜川の度重なる氾濫で田畑が埋まり貧窮していた現在の浜松市東地区。下石田村(東区 下石田町)の神谷与平治森之は弘化4年(1847)に二宮尊徳の門人 安居院庄七を招き尊徳の教えを学ぶことによって立ち直った。それを広めようと、与平治が中心となって下石田報徳社が結成された。

これが 二宮尊徳の教えを勉強する日本初の民間組合( 報徳社 )である。(官営を含めると小田原、下館に次いで3番目)

その後、近隣町村への奨励、並びに噂を聞いて安居院庄七を招聘して始めた掛川の岡田佐平治等により、遠江の農村を中心に多くの組合(報徳社)が出来、農民の自主的活動として発展しました。


静岡県浜名郡誌. 上巻 ( 大正3年発行 ) 名士 「神谷与平治」

神谷氏報徳碑(下石田)

すべて剥げ落ちた看板(左端)が痛々しい

組合(報徳社)の増殖・拡大 手法が風土に

指導者 安居院庄七が文久3年(1863) 死去すると、運動は次第に衰退。しかし慶応3年(1867)新たに小田原から招いた指導者 福山滝助を招聘し指導を受ける事により、森町、浜松を中心に再び、活動が広がっていきました。
組合で行われる常会には組合員のみならず、多くの人々が聴講する事により、二宮尊徳の教え 並びに 何事も実践し、やり遂げる実行力を学びました。

明治8年  組合は、遠江で組織される

明治8年(1875) 数多く出来た組合を組織化しようと遠江国報徳社が玄忠寺(浜松市田町)に設立されました。
社長 は岡田佐平治(嗣子良一郎がつぐ)
幹事 神谷与平治森時(森之 子)・小野江善六 他。

その後 明治10年に見附宿に見附支社(浜松は浜松本社)、明治11年に掛川宿に掛川支社を作りました。

静岡県報徳社事蹟 ( 明治39年発行 )

いつ新しい事務所が出来たのか、明治32年地図に「東照宮」 南西に「報トク」の文字が見えます

そして明治31年 遠江国報徳社は 社団法人になり、浜松、見付、掛川に分散していた事務所を掛川に統一しました

浜松鉄城及市街略図 (明治32年)
浜松市史 新編資料編(二)付録

現在 ( 中央奥 東照宮 )

静岡県名士列伝. 上之巻 岡田良一郎君伝(遠州ノ人)

同じように質素倹約 社会奉仕に努めた 金原明善

報徳に多くの知友を持っていた金原明善は 浜松県第一大区四小区の区長となり、治山治水を開始。明治5年,浜松県からの要請で天竜川普請専務となると家屋を売却した 63,500余円を静岡県に醵出し、これを基金として「治河協力社」が設立認可(同8年)し,堤防の構築を進めていきました。

天竜川上流の植林事業,三方原の灌漑を目的とする疏水事業,「天竜運輸株式会社」「天竜木材株式会社」の設立,等も行い。又 社会事業として,同13年以来 出獄人保護事業を行い,同21年 日本で初めての更生保護施設「静岡県出獄人保護会社」を静岡に設立しました。30年後に出来た浜松支部は、今も「救護施設 慈照園」として続いています

慈照園 ( 鴨江 )

明治44年  全国組織に

やがてそれが全国組織に拡大された為、明治44年(1911) 名称を大日本報徳社に変更しました。

右表は、前年の1910年の県別分布状況ですが、実に364(67.8%) が静岡であり、そのうち88%が遠江にありました。

遠江国報徳社府県別分布状況(1910年)
「報徳運動と近代地域社会」 足立 洋一郎/著 御茶の水書房

「推譲」で集められた積金や寄付金が 浜松を発展をさせていきました

明治6年 社会への貢献 寄付で作った「 資産金貸附所 」

明治2,3年の大凶作の経験から 備蓄を目的に寄付金等で浜松県に集まった備金は総計で19,482円 米132石 (今の 約5億9千万円)。殖産興業助成を目的に これを原資として明治6年「 資産金貸附所 」を設立され遠江の経済成長を助けました

※ 1円=現在の3万円(武士の商法 磯田道史 より)

二宮翁夜話続編 六 / 二宮翁夜話 巻の四 146 抜粋

翁はこう言われた

私の道は譲道を尊ぶ。譲道は富貴を永遠に保持する道で、怠ってはならない道だ。だから私の道は、富貴を永遠に維持する道だといってもさしつかえあるまい。だから富貴の者は、必ず私の道に入って、誠心をもって勤め、永遠の富貴を祈るべきだ。

推譲の道は、百石の身代の者が、五十石で暮らしを立て、五十石を譲ることを言う。この推譲の方は、我が教えの第一の方で、すなわち家産維持、かつ漸次増殖の方である。家産を永遠に維持する道は、これより他にない。

「 資産金貸附所 」並びに 組合で始めた "積金貸付け" が銀行へと発展

明治23年 銀行条例が公布されると次々と銀行が設立されました。これ等の中には、資産銀行(資産金貸附所)、積志銀行(積志講社)等、二宮尊徳の教えを元にした資金で出来た銀行も含まれています

・明治34年(1901)には静岡県の銀行数 184行は兵庫に次いで第2位、そのうち66% 121行が遠江(はままつ百話 p.118)。

・静岡県は全国でも最も銀行の多い県で(明治三十八年『明治財政史』)、なかでも遠江は県下の①国立銀行三のうち二、②私立銀行二十九のうち二十三、③銀行類似会社三十のうち十六と、早くから金融機関の発達がいちじるしかった(浜松市史 三 p.208)


 その銀行の貸し出し状況( 預貸率 )を見ると、浜松では貸し出しが預金の数倍上回る状態で、明治という新しい文明社会に要求される新しい経済の構築に重要な役割を果たしました

( 賀茂馬淵記念館歴史講座 佐々木崇暉 資料 )

二宮翁夜話 巻の二 42 抜粋

翁は、こう言われた

貸付の道は、元金が増加せるのを徳とせず、貸付高が増加するのを徳とするものだ。これは、利をもって、利にしないで、義をもって利とするということだ。元金の増加を喜ぶのは義心である。貸付高の増加を喜ぶのは、善心である

多くの人々の寄付で誘致活動を実現しました

いろいろな企業が、勃興 発展しました

浜松では、尊徳の教えに従う報徳商人と呼ばれた人たちも含め多くの人々が商売を成功させ、それを元に企業創立 発展させ、それが浜松の風土になりました。

遠江で創業した会社の企業理念 社訓 には二宮尊徳の教えが垣間見えます。


三立製菓株式会社 社名 【 創立者 松島保平 が命名 1921年(大正10年 ) 】

「消費者、販売者、製造者」の三者、
あるいは「従業員、株主、経営者」の三者が、
もっとも安定した形で成り立つように


豊田綱領 【 豊田佐吉の考え方を、豊田利三郎、豊田喜一郎が中心となって整理し1935年(昭和10年)に発表 】

豊田佐吉翁の遺志を体し
一、上下一致至誠業務に服し産業報国の実を挙ぐべし
一、研究と創造に心を致し常に時流に先んずべし
一、華美を戒め質実剛健たるべし
一、温情友愛の精神を発揮し家庭的美風を作興すべし
一、神仏を尊崇し報恩感謝の生活を為すべし


ホンダ 企業理念

 【 1951年 本田宗一郎 「我が社のモットー」として宣言 】

三つの喜び 買う喜び 売る喜び 創る喜び

ホンダが”報徳”というのは、文献等には見られないが、本田宗一郎が報徳商人が多く居る浜松 下町 アート商会で働いていたことを考えると、あながち間違いではないだろう

アート商会跡地には現在大きなマンションが
(奥山線 北田町駅跡地から西北を望む)

二宮翁夜話続編 34 抜粋

翁は、こう言われた

商業が繁栄して大家となるのは、高い利益をむさぼらないで、安い値でうるからだ。高い利益をむさぼらないというだけで、売る人も買う人も、両方集まってきて、次第に富を築くのだ

二宮翁夜話 巻の二 42 抜粋

翁は、こう言われた

天は生々の徳を下し、地はこれを受けて発生し、親は子を育てて損得を忘れ、ひたすら成長を楽しみ、子は育てられて親を慕う。夫婦の間も相互に楽しみ合って子孫が相続する。農夫は勤労して植物の繁栄を楽しみ、草木もまた喜びにあふれて繁茂する。みな相ともに苦情が無く、喜びの情ばかりだ。

さてこの道にのっとる時は、商法は「売って喜び、買って喜ぶ」ようにすべきだ。売る人は喜び、買う人は喜ばないのは道ではない。買う人は喜び、売る人は喜ばないのも道ではない。

二宮翁夜話. 巻之2

参考文献

「静岡県史」
「浜松市史」
「報徳運動と近代地域社会」 足立 洋一郎/著 御茶の水書房
「はままつ百話 明治・大正・昭和」大塚 克美・神谷 昌志/著 静岡新聞社
「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」 地福 進一/編 二宮尊徳の会
「積志の流れ今 むかし」 浜松市立積志公民館わが町文化誌編集委員会/編
 賀茂真淵記念館 歴史講座資料
「二宮翁夜話 中公クラシックス」二宮 尊徳/述 福住 正兄( 尊徳 門下生 )/筆記 児玉 幸多/訳 中央公論新社